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豊臣秀吉の水攻めで有名な備中高松城だが、その詳細については不明な点も多い。永禄年間(1558~70)に備中松山城主三村元親の命で石川久式(一族の石川久孝とも)が築城したとされ、久式の死後、娘婿の清水宗治が城主になったという。天正10年(1582)の秀吉の中国攻めでは宗治の必死の抵抗があって、毛利氏の防衛拠点の中で最後まで持ちこたえたが、水攻めの奇策で落城。その後は宇喜多秀家の家臣の花房氏が城主となるが、元和の一国一城令で廃城になったという。
足守川流域の低湿地帯に築かれ、最高所に一辺約50mの方形をした本丸が置かれた。本丸の南東方向に二の丸、三の丸を配し、これら三つの曲輪の東側に家中屋敷が置かれた外曲輪・北曲輪が包み込む梯郭式に近い縄張であったと推定される。深田や沼を城の防御ゾーンとしていたため水攻めにより水没した。、、、続日本100名城公式ガイドブックより
場所は岡山市北区高松558-2
高松城址公園駐車場

縄張図
※パンフより

三の丸
三の丸跡にある寺地の中に、宗治の自刃の跡地があります。

二の丸
二の丸と本丸とは、小橋で繋がっていたと言われています。

本丸方向

水路

備中高松城址歴史資料館

資料館より本丸方向

本丸跡

宗治切腹の後、秀吉が家臣に供養塔を造らせたのが後の首塚。当初石井山にあったが明治になって本丸に移されました。



現実に起きた城址水没
1985年6月25日に発生した洪水被害の写真
城址が水没しています。
すでに秀吉堤防は消滅(一部残存)していますが、低湿地帯に築かれていたことがわかります。
※パンフより

水攻めによる高松城水没イメージイラスト(同)

天正10年6月4日、秀吉は清水宗治が湖上で切腹するのを見届け、和睦の儀式と兵糧の徴収を終えると、毛利群の追撃があっても妨害できるよう堤防を破壊させ、6日の早朝には撤退を開始しました。
ここから電撃的な「中国大返し」を敢行し、主君信長の弔い合戦で光秀討伐を果たしました。これにより天下人の道を駆け上る訳ですが、その転機となったのがここ備中高松城の戦いでした。
【御城印】
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名称(別名);びっちゅうたかまつじょう
所在地;〒701-1335 岡山県岡山市北区高松558-2
城地種類;平城(沼城)
築城年代;十六世紀後半か?
築城者;石川氏
主な城主;清水氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;公園として整備
天守の現状、形態;
地図;